昭和45年12月15日 朝の御理解


 御理解第六十五節
 日柄方位は観るに及ばぬ普請作事は使い勝手のよいのが吉い家相じゃ。吉い日柄と言うは空に雲の無いほんぞら温い自分の都合のよい日が吉い日柄じゃ。如何に暦を見て天赦日じゃと言うても雨風が強うては今日は不祥のお天気じゃというではないか。日のお照らしなさる日に吉い凶いはないと思え。


 読まして頂きながら、また、皆さんも聞かして頂きながら、何と懇ろな表現で、懇ろに本当な事を教えて下さってあると感じられると思う。本当に子供でも分るように、本当な事を教えておられます。
 金光様の御信心は、どこまでも本当な事が分り、本当な人になり、本当な事になって行く事だと思う。
 昨日、御理解の中に天ぷらとゆうのが出ましたねえ、天ぷらじゃ駄目だと。本当なもので無いのを天ぷらだと。
 本当に思うてみると、自分たちの信心は天ぷらだなと思います。本当なものじゃない。そこで、どうかして本当なものになりたい。
 昨日、公子さんがここでお届を致します。折角打ち込んで、このようにしてお広前で修行させて頂いておるのでございますから、それが、只、修行させて頂いておるとゆうだけでは勿体無い。どうかして本当な修行が出来ますように、本当な事が分りますように、本当な人にならして頂きます様に、親先生、私の至らん所、いけないところ、親先生に一口、ちょっと、こういうて頂いたら、それが改められるような気がする、とこう言うてお届けをするのですよ。
 そうだなあ、折角修行させて頂くのだから、折角、言うなら信心させて頂くのだから、本当な信心を身に付けたいと言う、切に止むに止まれん修行、その為に様々な修行を試みて、普通から思うたら、本当に馬鹿げたような言うなら修行でも、敢えてさせてもろうて、それこそ心を砕き、身を削りとゆう事でありましょう。
 幹三郎さんが入院されてから、お風呂を頂く事を致しません、朝晩水行をさせて頂きます。退院されたから、やれやれとゆうところではあるけれども、お礼の印にこの三月まではお風呂を頂きません、朝晩水行をさせて頂きますと。
 それこそ、うら若き娘が風呂も入らんなんてん、そげば修行止めなさいと言いたいごとあるけれども、本人は止むに止まれんのですからねん。
 それでです、本当な事が分りたい、折角修行させて頂くのですから、本当なことが分りたい、本当な私になりたい、と。ところが自分とゆう者は、実際、一日をじっと振り返らせて頂くとです、本当に情けない程、本当な事でない自分に気が付かせて頂いて幻滅を感じる程しにある。
 そこで、親先生に公子さん、あなたはここを改めにゃと一言言うて頂いたら改める事が出来るとゆうように思うとゆうのです。
 だから、いきなりさんぱちに言うたっちゃいけんから、そんなら公子さん、私があんたに感じた時、そん時に言う事にしようねと言うた事でした。
 私は、もう六十五節は本当の生き方、間違った考え方生き方をしておる者に対してです、もう、それこそ噛んで含めるように懇々と、例えを引きながら教えて下さってあるのが、私は六十五節だと思うねえ。
 何故、日柄方位は観るに及ばんのか、何故吉い日とか悪い日とかないんだぞとゆう事をです、人間が、もしこうゆうような事に縛られましたらね。それこそ、きつい事になってくる、窮屈な事になって来る。
 昨日も、久冨さんがお参りになってから、今日のお初穂の整理は明日にさせて頂きますと言いなさいますもん。なしや、今夜はせんのと言うたら、明日は十五日で村の祭日でお休みだからと。同時におかげを頂いて、家内の親戚に往生人があった。それが十三日に亡くなられ、十四日にお葬式となっておったけれども友引で一日おいて、十五日の、いわば今日お葬式があるとゆうのです。
 ですから、若夫婦二人はそのような風でお葬式のほうに参ります。家内は孫の紐落しで大関のほうへ参ります、とこう言われる。
 それを聞かせて頂きながら、まあ何と窮屈な事だろうかと思ですねえ。友引だからお葬式が出せんと、もう愚にも付かない事をです昔から言うて来た事じゃろうかと言うて。
 私はこの辺のところがね、金光様の御信心をする者はもう早う、その辺の所を卒業させてもらい、このように懇々と分りやすく説いて聞かして下さってあるんですから。成る程、私は吉い日凶い日はないのだと。日柄方位は観るに及ばんとおっしゃってあるから、私は神様の教えて下さる事を素直にハイと聞かせて頂くとゆう事。それは、神様を信ずるからそれであります。
 御神徳を受けると言うてもです、やはり御神徳とは神様からの御信用じゃとおっしゃる。あの氏子は間違いがない、あの氏子は間違いがないわしの言う事をようきいてくれると、そこから神様の御信用は生まれてくるのですよ。
 それに関わらずです、御教えにはああ言うて下さるけれども、やっぱり世間一般のそれをとらなければいけないような事になる。
 とゆう事はね、もう本当に、日々、それこそ公子さんじゃないけれども、本当な事が分りたい、本当な事が分りたい、本当な人にもなりたい。その為の修行も厭わんと、そんならこうして日々朝参りを皆さんなさっておられる訳ですけれどもですよ、その精進がです、たった神様を疑うとゆう事だけで、いわゆる神様から、また疑われる事になって来る。
 それこそ信じる者を信ずるでありましょうね。神様を信ずるから、また神様から信じられるのである。
 神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないとおっしゃる。私共が信じられる為には、まず神様を信じなければいけません。
 高芝さんの、お母さんが亡くなられた時が丁度友引でした。それでお伺いに見えましたから、あんたは金光様の御信心を頂いておって、しかも総代までしてから、そげなこつお伺いするまでもない。そんなこつなんか全然問題じゃないじゃないのと言うて申しましたから、親戚にも一日延ばすことになっておった葬式を、また電報を打って取り消されました。
 そして、俗にゆう友引とゆう日がお葬式になりました。親戚の方から、色々と問題がありましたけれども、金光様の御信心をさせて頂く者はそうゆうことはもんだいにあいないからと。
 これは、問題にするとかしないとかじゃなくてね、私は神様を信ずるとゆう事だと思うですよ。だから神様から信じられるのです。
 おかげで無事済みました、いわゆる改式をしてありますから、私がお葬式に参りました。
 ところがどうでしょう、その一日、翌日はもうそれこそ大変な雨風でした。あの時分は、リヤカーで火葬場まで引っ張ってゆかねばなりませんでしたが、それに雨風が強かったら、いくらいわば天赦日じゃというても雨風が強うては良い事ではないでしょうが。
 友引とゆうのは、あとにまた死人が続いてあるとゆう迷信があるのですが、おかげを頂いて勿論そうゆう事もありませんでしたが、本当にそれを境に高芝さんはおかげを頂いてますですねえ。いろんな意味で。
 勿論、神様を信ずると言うか親先生の言うて下さった事を信じた。電報で葬式をまた全部言いなおしました。言うなら、友引の日にあるとゆうので。
 おかげを頂いてお礼参りをして来てから、もう本当に親先生のおっしゃる通りにさせて頂いたら、ああゆう良いお天気の中にお葬式が済んだ。俗にゆう友引だからと言うて一日先に延ばしておったら、それこそお参りをさせていただく人達にまた自分の家でも大変困った事であったと言うております。
 ところが、そんなら久冨さんの所の場合なんかになるとどうゆう事になるかと言うとね。嫁の親戚である、それで今日は息子たち夫婦があちらにやらして頂く。けれどもおかげを頂いてから、まるきり私に方の為に友引であったような気がしますと言うておられます。
 どうせ十五日はお休みだから、家内は大関の方にお祝いに行き、息子達夫婦はお葬式へ。友引も信心させて頂く者の上には素晴らしい天赦日になるねというて話した事です。だから、信心させて頂く者の上にはです、そのようなおかげが受けられる。
 わざわざ休みにしなくとも、お休みの日に丁度向こうの方から………。私の方は、こげな風で忙しかけんで休みの日にお葬式をして下さらんかとゆう訳にはいかんでしようが。それを向こうの方から変わってくる、いわゆるそうゆうお繰り合わせも頂かれる。
 いわゆる神様を信じておるから、また信じられる働きがそのようにしてある訳なんです。
 私共何気なしにですね、お道の信心させて頂いておっても、やはりいわゆる日柄方位を観たり、普請をするのに普請作事は使い勝手のの良いのが吉い家相じゃとおっしゃるのに、家相が吉い凶いのとけちをつけたり、天赦日じゃと言うてもそれこそ雨風が強うても。やっぱり雨風の日に難儀をしておると言ったような、そうゆう窮屈な生き方から人間本来ののね。
 それこそ自由自在に天地を使わせてもらうというか、自由自在な、いわゆるここに使い勝手の良いのが吉い家相じゃとおっしゃるのはどうゆう事かというと、私共のいわば使い勝手とゆう事が天赦日なんだ。
 だから、雨の降る日でも、やはり私共の場合は天赦日だとゆうことになる。そこにお繰り合わせを頂いてです、雨の降る日には雨の降る事がおかげであるとゆうお繰り合わせが頂けるのです。
 これこそ久富さんのお話ですが、種を蒔かせて頂いた。何時もたんびにお湿りを頂くと。ですから久冨さんの場合は、もう雨の降る日でも天赦日であり有難い日であるとゆう事がいえるのじゃないでしょうかねえ。
 日のお照らしなさる日に吉い凶いはないと思えと、私共がそうゆう事をわからして頂くとゆう事が本当な事になるのです。いわゆる、本当な事が分って本当な事になって来るとゆう事が、私共の幸せに繋がる事であると同時に神様を信ずるとゆう事になるのです。
 だから、また神様から信じられるとゆう事になります。まあ、ここから感じさせて頂くんですけれどもねえ、本当な私になりたい、本当なものになりたい。天ぷらではない自分になりたい、それを神様は懇ろに、本当な事をこのようにして教えてくださる。
 そこで、今日、私は皆さんに、これは私自身は本当なものではないけれども、何時も本当なものを目指しておる。まあ、ちょいと見ると本当なもののごたるとゆうところを効いていただこうと思う。
 昨日、久冨繁雄さんが今度御用をなさいました。丁度家内が、幹三郎の入院のためあちらに行っております。ですから、その間を殆ど泊り込みで御用をなさっておられる。その御用をさせて頂きながら、感じられたり頂かれた事をここに書いて来てあります。
 これを読ませて頂くと、如何にも私が本当な者のように見えるのです。しかし、これを見せて頂いてこのような本当な私にならなければならないなと。いや、それは四六時中がそのような私であらなければならないなとゆう事です。
 どうぞ皆さん聞いてみてください。如何にも私が本当な者のように書いてあります。「親先生のおそば近く奉仕させて頂いて」と題してありあます。
 『今般、親奥様、幹三郎様入院についてお留守の間を朝晩御用奉仕ををお許し頂きまして、次の間に控えさせて頂き不行届きの多い事ながら、一心の真を捧げさせて頂きました。
 親先生の日々の厳しい、御神前奉仕の合間を少しでもお喜び頂けるように心掛けさせて頂き、お下がりの後をお茶のお相手をさせて頂きました。
 お番茶を入れましても、大変美味しい美味しいと言うて召し上がりますが、こちらの思いが欠けております時など、例えそれが玉露でありましても「これはちょっとおかしいね」とおっしゃいます時などハッとして、思いのいたらない事をお詫びする事もあります。全く恐れ入ってしまいます。
 夜は大抵十二時ごろお休みになり、お足を揉ませて頂きますが、金光様有難うございます、有難うございますと低く唱えながら眠りにつかれます。御用させて頂いて、こちらが有難くなってしまいます。
 朝は、三時過ぎにはお目覚めで油断をしていると、こちらが遅くなり、洗面をなさっている物音で目を覚ますような事も再々ありました。
 奉仕着をお付けになり、お控えの間にご出仕の御伴をさせて頂くのですが、暗い廊下を曲がり曲がりお進みになる日々の事は一分の間違いもなく繰返されている訳ですが、ただただ勿体無くて胸が熱くなります。
 控えに入られますと、まず障子を開けて天地を四拍手して拝されて、天地岩に向かって二拍手なさいます。この瞬間、親先生と天地との交流が始まるのだなと思われるほどの神気辺りに充ち充ちてまいります。
 次に御皇室、金光家に向かって二拍手なさいます。控えに入られますと、三代金光様の御写真に向かって御礼があり、四時の御祈念を瞑想しながら御待ちになります。
 修行生の方の先導で神前に進まれ、一時間の心中祈念が終わられ御結界に就かれますと全館に電灯が点いて、若先生の元気一杯の御祈念が始まります。
 その頃になりますと、お広前一杯の信者が集まっています。四時から五時の静から動の対象が見事です。三十分で若先生、信者一同の御祈念が終わり、親先生の三十分の日々さらなご理解が始まり信者一同朝参りの喜びを満喫して帰路につきます。
 以上は、この度の奉仕のお許しを頂いて親先生のご身辺より、感じ頂きました事、朝の御祈念をまず文章に致しました。』
 これを聞いとりますと、本当に本当な先生のごたる。しかし、確かに朝の一時は自分でも本当なもんだなと思うくらいでございます。けれども、さあ、こうゆう雰囲気をかもせれる程しのね、私たち四六時中そうあらして頂きたい。
 これは、私が三代金光様を何時も身近に感じさせて頂いて、三代金光様のあの御神勤振りは、私共のひとつまたとない手本としてそうゆういわば理想を持って、その本当な取次ぎ者への道を修行させて頂いて居る訳であります。
 私がこの六十五節とゆうのは、本当な事を分らせてくださろうとしておる。
 それで前半に申しましたように、私共の例えば金光様の信心頂いておりましても、本当な事ではない生き方をしておりはしないか、また本当な人として本当な信心させて頂いておる者としての間違いはないかと自分自身を何時も確かめてみて、その為の修行であり、その為にです、公子さんのそれじゃあないですけれども、折角修行させて頂くのですからとゆうのであり、折角信心させて頂くのですから、折角朝参りを皆さんさせて頂くのですから、その事をです、例えば日のうち一時でもさせて頂いて、本当な者にならせて頂く事の喜びとか楽しみとゆうものをです、愈々広め愈々ひろげてゆかなければならない。
そして、間違いのない私にならせて頂く、そこから神様のあの氏子は間違いがないとゆう、又御信用もついてくると思うのです。
 同時にまた、その間違いのない生き方に間違いないおかげが伴うて来る事を、私は確信致します。
 私共のように、いうなら間違いだらけの日々、それを攻めて朝の一時だけなりとも、これは繁雄さんならずとも、私自身本当に朝の一時とゆうのは、私にとって一番大事な時であるし、過言ではない、これではもうちょっと足りない位に私はあると思います。
 ですから、それを四六時中の中にもです、それを頂こうとする姿勢を持っておるとゆうだけで、言うならば間違いのないおかげを頂いておる訳です。
 だから、問題は意欲しなければ行けません。だらしない例えば日々、それがそんなら一分ずつでも一厘ずつでも正確なところをです、お互いが進ませて頂かねばなりません、とゆう願いを持たなければいけません。その為の修行であらねばならんと思うのです。
 六十五節に噛んで含めるように、それこそ本当な事を誰でも分るように分りやすく説いてくださってあるのに、やはり友引は友引として感じたり、やっぱり家相は家相として観らなければならないとゆう事は神様を信じてない印なんですから、それで神様から信じられるはずがない。
 と、同時に今日は後半の、その繁雄さんが書いておられる事からです、自分自身が例えばこのような四六時中でありたい、取次ぎ者でありたいと念願し、それにいわば努め精進させて頂いておる。そうゆう姿勢を何時も持っておる。
 だから、出来なくても出来たようにして神様がきちっとおかげを下さってあるように思うのです。
                         どうぞ